彼が記憶している限り、ジョン・アーヴィンは彼の芸術をコミュニケーションの手段として活用してきました−心を通わせる手段として。
彼は、1948年に陸軍士官(ジョン)の2番目の子供として、アメリカ合衆国・ハイアニス(メーン州)という地域で生まれました。 幼少時代には、何度も引越しを繰り返していました。5歳から10歳までの5年間をドイツで過ごした後、アメリカのコロラドスプリングスへ戻ってきました。
“僕は常に芸術を愛してきたけど、その能力が新しい環境での、新しいグループに溶け込むときに役に立ったよ。”と彼は思い返します。
“僕はかっこいいい車や、タンカー、兵隊さんなどを描くことができたが、それが再びアメリカ社会に溶け込むのに役立ったよ。″
彼の父親・ジョンの最後の勤務地は、カリフォルニア州のモンテレーで、そこで、ジョンは中学・高校時代を過ごしました。彼は薬学を勉強したいと考え、サンタクルーズのカリフォルニア大学に進学しました。“誰もが、私にプロのアーティストになるべきだと言ってきたので、僕は違う事にチャレンジしたんだ。”と彼は笑いながら言います。3週間化学の授業を受けたあと、彼はみんなが正しかったことを悟り、ロスのアートセンターカレッジへの編入が可能な、ジュニアカレッジへと転向しました。
ジョンは広告デザインを学び、CMアーティストとして活躍していました。”僕はいつも描くことに魅了されてる。それは自然にわかるんだ。小学校1年の時、授業で家の絵を描いた時、僕のは遠近感を出したのだけど、他の子達のは違った。先生はどうやって描いたのか聞いたけど、僕は「だってそう見えるからだよ」と答えたんだ。
"同じように、大学でも彼の才能は光り、恩師はジョンはイラストレータになるべきだといいました。"彼はそのアドバイスのとおり専攻を変え、ビジネスの両面から、イメージを創造する側とイメージを創造する人たちを雇う側の両面からアプローチするスキルを身に付けました。
卒業後ジョンと同年代のアーティスト達は、エディトリアルイラストレーターを目指しニューヨークへ行きました。”僕はそれにはあまり気が乗らず、なんとかLAで生活が
できないかと考えた。それが、エンターテイメントビジネスと出会うきっかけとなりました。そこで、当時ファインアート画家で一緒にアニメーションの仕事をしていた、
将来の妻となるアンドレアと出会うのです。
“イメージを創造してお給料をもらえるなんて、とてもすばらしい経験だったよ。
その仕事をしている間、僕の望むものを作り上げていく作業というのは、フリーの画家として、よいキャリアを積むことができたんだ。”
ジョンはいつも映画の魅力に引き込まれています。
“僕は、マジックに貢献する方法がなくちゃならないということを知っていたのさ。”
それは、彼の映画の解釈を、ポスターのイメージとして創造するという形で表現してきています。
そしてそのような形で、彼は30年間貢献してきているのです。
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